SOULSCAPE
生まれ育った家の前は、50メートルほど向こうまで水田が広がっていた。その先は目隠しのような雑木林の急斜面だった。いつからか水田は使われなくなって、いまでは野原のようになっているけど、とにかく、これがぼくにとっての原風景だ。田んぼにも雑木林にも奇妙な生き物がうごめいていたし、どこを見回しても不思議な形をした植物があった。そうして目にしてきた有機的なあれこれが、ぼくにとってあらゆるものの原形だ。
のどかな外の風景とは対照的に、家の中は緊張感に支配された空間だった。ややこしい問題を抱えた父親がそこにいて、気に入らないことがあれば歳の離れた母親に暴力を振るった。幼かったぼくは、ただ怯えて混乱していた。ドメスティックバイオレンスなんていう言葉はまだなく、あったのは屈折した支配、そして不条理だ。
十代半ばで家に寄りつかなくなるまで、ぼくにとって絵は逃避であり抵抗であり、また自分を守るための頼りない手段でもあった。
ふたたび絵を描くようになったのは、米国であの9.11の同時多発テロ事件が起きた翌月のことだ。大学を出て4年目で、英語圏の小説などを日本での出版に結び付ける翻訳著作権エージェントの仕事に就いていた。ニューヨークは米国における商業出版の中心地で、世界的な出版文化の一大拠点だ。仕事を通じて知り合った仲間たちの半分はそのニューヨークにいた。衝撃と混乱は凄まじく、あれこれ手につかなくなった。いくつかの個人的な状況も重なって、ぼくの内部でなにかが決壊した。
仕事用のノートとボールペンから妙な形が次々と現れるようになり、ついに脳が壊れたかと疑った。テロ事件の翌々月にニューヨークに出張し、それからいよいよ絵が止まらなくなった。
絵をいくら描いたところで暴力や不条理が止むわけではないことは少年時代から知っている。しかし、間接的な手段を用いてでも、態度を示すことが必ずしも無意味ではないということもその後の人生で知った。
2025年5月
田内万里夫